2024年4月、TOPPANは伊藤若冲の幻の作品『釈迦十六羅漢図屏風』のデジタル推定復元を完成させた。現存するわずか1枚の白黒図版から、学術的調査と推論を経てデジタル彩色を施し、複数の印刷技術を組み合わせることで、若冲独特の絵画技法”枡目描き”をその立体感まで再現している。
本稿では、失われた文化財や美術品のデジタル復元を数多く手がけてきたTOPPANの木下 悠氏と、その指揮するチームに参加して名匠の12万もの枡目からなる作品に、他のレタッチャーとともに挑んだ職人集団こびとのくつのメンバーに、本プロジェクトの全貌を聞いた。
さらにインタビューに加わるのは、150年ぶりとなる賀茂御祖神社(下鴨神社)獅子狛像を手がけた気鋭の仏師・宮本我休氏。仏教美術の伝統と革新、アートにおけるデジタル技術の可能性まで、じっくりと語り合ってもらった。
——本プロジェクトが始まったきっかけは何ですか?
木下:TOPPANでは文化財をデジタル化して後世に残していく「デジタルアーカイブ」に取り組んでいます。戦争や自然災害などで素晴らしい文化財や美術作品が失われることは実は珍しくありません。高精細な記録を残しておくことには重要な意味があります。実物が失われてしまうと、どんな傑作でもやがて忘れ去られてしまうのです。
特に私は若冲が以前から好きで、彼の個性的な“枡目描き”手法に関心をもっていました。そこで『釈迦十六羅漢図屏風』を次の復元テーマに選んだのです。
——『釈迦十六羅漢図屏風』はまさに実物が行方不明で、焼失した可能性も高いと考えられる幻の作品ですよね。何を基に復元されたのでしょうか?
木下:明治時代のひとたちも既に、美術作品の写真を撮影することが、バックアップのように機能することを理解していました。もちろん絵画などが撮影された理由はそれに限りませんが、それでも写真に収められていたおかげで、実物は失われたけども、白黒写真だけは伝わっている、という例はたくさんあります。私はそういった写真資料をもとに、作品の色などまでをも復元する試みを続けてきたんです。本プロジェクトは、『臨幸記念名家秘蔵品展覧会図録 』(昭和8年)に掲載されていた白黒写真を基にして始まりました。
美術史家の山下裕二先生(明治学院大学 教授)に、『釈迦十六羅漢図屏風』を復元したい」と相談すると、「やってみよう」と賛同してくださったんです。絵画技法などの監修としては、山下先生がご紹介してくださった荒井経先生(東京藝術大学 教授)が協力してくださることになり、本格的に復元プロジェクトが始動しました。
工程① 調査に基づく色の推定
木下: もっとも重要なのは、復元の指針を定めることです。枡目描きによる作品として『釈迦十六羅漢図屏風』のほかにも、『樹花鳥獣図屏風』(静岡県立美術館所蔵)、『鳥獣花木図屏風』(出光美術館所蔵)、『白象群獣図』(個人所蔵)の3点がしられています。これらは現存している作品です。
枡目描き作品は、それぞれの枡のなかに方形が描かれていて、そのなかにさらにひとまわり小さな方形が重ねられています。『釈迦十六羅漢図屏風』の白黒写真を拡大すると、この小方形が、方形の左下に置かれていることがわかります。『樹花鳥獣図屏風』でも小方形は左下にみられます。実はこれは他の二つの作品とは異なる特徴です。他にもいくつかの類似が指摘できるので、この作品が最も近い表現だっただろうと判断しました。この類似から逆算するようにかつての姿を探っていく、というのを基本的な復元方針としました。
——最初に取りかかった作業は何ですか?
木下: まずは絵具の特定です。非破壊の科学調査を通して『樹花鳥獣図屏風』に使用されている絵具を調べました。調査は東京藝大のチームに実施していただきました。
そこから特定した絵具を用いた彩色サンプルを藝大にて作成してもらい、それを白黒化することで彩色を推定する手掛かりのひとつとしました。
工程② デジタル彩色による描画の再現
——色を特定した後の、デジタル彩色のワークフローも紹介してください。
木下:デジタル彩色では、まずは方眼線を描いて、写真からひとつずつ図像の輪郭を探してなぞっていきます。その後、まずは淡い色でモチーフを塗り分け、その中に方形(四角形)を描きます。左下にさらに小さい方形を描き込み、最後に暈しによる量感表現を加えるという、実際の枡目描きの描き方と同じような手順で彩色をしました。レイヤー構造もそれを再現しています。
工程③ 描き方を再現した3層の印刷
——印刷用にデータを調整するプリンティングディレクターはいらっしゃったのですか?
木下:プリンティングディレクターはいますが、最適な環境と設定を用意したうえで固定してもらい、データの調整等の作業はしないようにお願いしました。データが動く工程が複数あると、表現の変化の因果関係がわからなくなるので、動かすのは僕が用意するデータまで、としたのです。
枡目描きのもたらす効果を現代の印刷で再現するため、複数の印刷技術を組み合わせる必要がありました。詳細はお伝えできませんが、これが印刷なのか?と驚いてもらえるような立体的な表現にできたのではないかと思います。
Photoshopで“絵の具らしさ”を再現
木下:近世までの絵の具は基本的に天然由来で、岩や土、貝殻などその素材によって見え方がまったく異なります。色と質感の両方でその“絵の具らしさ”が構成されるので、色だけでなくその質感をデジタル画像でどう再現するかは、最後までかなり苦労しました。
工藤:「当時の絵の具の質感を、再現したい」と聞いて驚きましたね。絵具は滲んだり溜まったりして独特な質感が出てくるんです。その質感をどうやってPhotoshopで再現するか、木下さんとやりとりしながら研究していきました。
彩色作業のポイントは、絵具の表現を劣化させずにデジタルの特性を活かして再現することでした。終えてみると、肝は「アナログとデジタルが融合する場所を見極める」ことだったと思います。実際に若冲の絵を見て、描かれたプロセスや絵の具の特性を理解してからでないと、デジタルの技法には落とし込めません。そこが一番の難所で、レタッチャーの試行錯誤が求められた部分でした。
——実際のレタッチ作業で工夫した点があれば教えてください。
工藤:筆のタッチを再現するために、専用のブラシをつくりました。基本のブラシでテストして『樹花鳥獣図屏風』と照合してみたら、枡目の表現が似ても似つかなかったんです。そこでノイズやエッジなどのパラメータを調整し、照合する過程をくり返して、「枡目専用ブラシ」が出来上がりました。
実作業を進めながら研究と作成を続けていたので、本プロジェクトのためだけに作成した「枡目専用ブラシ」や「枡目専用パレット」が結構な数あります。
——細かい部分までデジタル上でつくり上げていったのですね。
工藤:そうです。本プロジェクトは印刷の工程があるので、デジタルで再現したものが印刷に上手く反映されるかも、考慮すべき問題でした。描き上げたデータを木下さんが各印刷層に分けて製版し、われわれが描きたかったものが出ているかどうかフィードバックが入りましたね。ブラシ、枡目描き、にじみの表現を何パターンか校正刷りして、適切な表現のラインを確かめてから、それをデータに反映するというPDCAをひたすら回しました。
デジタルがもたらす新たなアートの可能性
我休:今回のデジタル復元を見て、デジタルの可能性を改めて実感しました。僕の仕事では、ノミと木槌で彫っていくアナログ工程は不変なので、デジタルは効率化のために補助的に使っている状況です。例えば図面を描く際に、デジタルなら半日、アナログなら1日かかるので、図面はデジタルで描いて、浮いた半日をアナログの彫刻作業に充てる、という活用方法ですね。
しかし『釈迦十六羅漢図屏風』復元プロジェクトでは、デジタル自体が作品になっています。いずれデジタルデータそのものが国の文化財になっていく可能性もあるわけなので、すごい時代になったと思います。
INFORMATION
デジタル推定復元された『釈迦十六羅漢図屏風』は、東京都文京区の「デジタル文化財ミュージアム KOISHIKAWA XROSS(コイシカワ クロス)」で一般公開中。ぜひその目で幻の若冲作品の素晴らしさに触れてほしい。
【開催概要】
開館日:2024年10月5日(土)より、土曜日、日曜日、および土日に続く祝日
時間:1日3回 13:30~/15:00~/16:30~ ※所要時間 約50分 (予定) 各回入れ替え制
定員:各回12名
鑑賞料金:500円
※「印刷博物館」の入場料が別途必要。(企画展開催時は入場料が変わります)
※「デジタル文化財ミュージアム KOISHIKAWA XROSS®」のみの見学はできません。
見学申込み方法:オンラインによる事前予約制。「印刷博物館」Webサイトの予約フォームより申し込み
【作品クレジット】
伊藤若冲「釈迦十六羅漢図屏風」デジタル推定復元
制作:TOPPAN株式会社
監修:山下裕二(明治学院大学教授)/荒井経(東京藝術大学教授)
TOPPAN株式会社所蔵
本記事引用元
・CGWORLD.JP
デジタル復元で蘇る伊藤若冲の『釈迦十六羅漢図屏風』。名匠による、12万の枡からなる大作は、どのように再現されたのか?
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・NHK日曜美術館放送
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